「郡是の父、母」と慕われたグンゼ創業者波多野鶴吉と妻は

グンゼ株式会社の創業者である波多野鶴吉は、安政5年(1858年)に京都府何鹿郡(現・綾部市)の大庄屋・羽室家の次男として生まれ、8歳で波多野家の養子となります。当時、養家の娘・はなは6歳でした。

鶴吉は17歳から京都で学問の道を志し、自身で数学書「啓蒙方程式」を出版するまでとなりましたが、この書籍は売れずに生活は困窮を極めました。その後、塾・貸本業の経営や製塩事業など様々な事業を手掛けますが、ことごとく失敗に終わり、ついには養家の財産を使い果たした上に借金まで作り、失意のうちに帰郷することとなります。そんな夫を信じ続け温かく迎え入れたのは、16歳のとき鶴吉と結婚し、ひとり養家で鶴吉の帰りを待った妻はなでした。

故郷で小学校の教員として再出発した鶴吉は、養蚕農家の子どもたちが劣悪な環境で生活する現実を目の当たりにします。そして持ち前の好奇心から蚕糸業について勉強し、その中でこの地方の蚕糸業が零細でまとまりを欠き、そのことが原因で全国的にも遅れていることを実感します。

その頃、東京上野で開催された品評会で、何鹿郡など丹波地方から出された繭と生糸は「粗の魁(品質粗悪)」と酷評されたことから、蚕糸業組合の結成が進められました。新設された何鹿郡蚕糸業組合の組合長には、地元蚕糸業の有力者の推薦で鶴吉が選ばれます。

組合長に就任した鶴吉は繭・生糸の品質改良に取り組みます。鶴吉は人材育成を推進し、先進地に人を派遣して生産方法や先進技術を学ばせたほか、養蚕伝習所を開校して技術者の育成に力を注ぎました。

そして、この地においては蚕糸業の振興こそが最も必要であり、自分に与えられた天命であると悟り、その後の人生をかけてその思いを成し遂げるため、明治29年(1896年)郡是製絲株式会社を設立します。

 

はなも、常に夫の傍らで事業経営を慎ましく支える一方で、愛児園(保育園)を開くなど地域にも貢献しました。グンゼ創業者の夫を陰で支えた女性としていくつかのエピソードが語り継がれています。

はなは熱心なクリスチャンで、綾部市内の教会で日曜礼拝を欠かさなかったといわれています。鶴吉と喧嘩したときも聖書の言葉を引き合いに出して仲直りしたといいます。また、はなは何事にも感謝の念を口にする人柄で、勤労意欲も高く、96歳で他界するまでグンゼ創業者の妻でありながら質素な生活を貫きました。

~波多野鶴吉と妻はな略年譜~
安政5年(1858) 鶴吉 何鹿郡中筋村延の六代目羽室嘉右衛門の次男として誕生
万延1年(1860) はな 何鹿郡中上林村八津合馬場51の波多野茂隆、たねの長女として誕生
慶応2年(1866) 鶴吉 波多野家の養子に入る
明治8年(1875) 鶴吉 旧制京都中学に入学
明治9年(1876) 鶴吉、はな結婚
明治14年(1991) 鶴吉 帰郷し、小学校の教員となる
明治19年(1886) 鶴吉 何鹿郡蚕糸業組合設立 初代組合長に就任
明治23年(1890) 鶴吉 キリスト教の洗礼を受ける
明治26年(1893) 鶴吉 高等養蚕伝習所(綾部高校の前身)を設立
明治29年(1896) 鶴吉 郡是製絲株式会社設立
明治34年(1901) 鶴吉 郡是製絲株式会社社長就任
大正7年(1918) 鶴吉 急逝(60歳)
昭和32年(1957) はな 急逝(96歳)

 

グンゼの創業と創業の精神

郡是製絲株式会社という社名の由来は、「郡=京都府何鹿郡」「是=正しい方針」で、郡の方針として蚕糸業の振興を図っていくための製糸会社としてグンゼは誕生しました。

当時産業立国策を全国遊説していた日本実業会会頭・前田正名の思いに共感した鶴吉は何鹿郡の方針として蚕糸業の発展を志し、その強い思いを社名に託します。当初、「郡是」は濁音が多く響きが悪い、意味が分かりにくいといった理由で反対する人が多くいましたが、鶴吉はけっして譲らなかったといいます。

株式会社として、その多くの株主が1株2株の貧しい農家であり、地域や社会への貢献を目指す異色の会社としてスタートしたグンゼは今も『人間尊重と優良品の生産を基礎として、会社を巡るすべての関係者との共存共栄をはかる』を創業の精神として、その思いを具体的に反映させています。

共存共栄

事業にかかわる者同士が助け合い、切磋琢磨し合いともに繁栄する「共存共栄」を鶴吉は目指しました。精神的・物質的な利益と幸福を増進し合うことが目的で、製糸業を通じて地域が発展していくには、信頼される高品質な糸を安定的に生産することが不可欠と考え、何よりも信頼される人材の育成に力を注ぎました。この創業精神は、グンゼが製糸業から撤退した今日においても、同社の経営理念の核として受け継がれています。

人間尊重

鶴吉は「善い人が良い糸を作る」という信念のもと従業員の教育に力を入れ、自らも率先して、師・川合信水の教えに学び、修養に努めました。
また「工女は自分の娘と思って、どんなことがあっても退社させず、よく面倒をみて立派な人に仕立てねばならない」として、良き社会人、良き家庭人としての養成を目指しました。こうした郡是の姿勢は、「表から見れば工場、裏から見れば学校」と言われるようになり、大正6年には京都府知事の認可を受けた「郡是女学校」も設立されました。人を財と考える精神は、生糸の品質向上をもたらし、郡是の発展の基礎となりました。

優良品の生産

鶴吉が興した郡是は、生糸の海外輸出を目指し「熟練と親切をもって一定の優美なる生糸を多量に製造」することを方針とし、優良品の生産に力を注ぎました。「親切」(心を込めた丁寧な仕事)なものづくりによって生糸の品質安定を図り、世界に信頼される品質を追求する姿勢を貫きました。