創業当初の郡是を支えた絆

波多野鶴吉と妻はなはその生涯において様々な出会いにより支えられました。
なかでも大きな影響を与えた人物は、愛の精神で社員の心を育てた教育家の川合信水氏、会社の危機にも資金を提供した銀行家・安田財閥創始者の安田善次郎氏、郡是の名を世界に広めたアメリカの織物業者ウィリアム・スキンナー氏などです。また、鶴吉が自身の片腕として社員に迎えた片山金太郎氏は、生涯にわたり鶴吉を支えました。

社会教育の祖 川合信水

明治42年鶴吉は、キリスト教信者で教育者の川合信水を会社に招き、同時に教育部を設置しました。

鶴吉の「従業員はご両親から預かった人たちであるから、教育して善くしたい」という思いに対し、信水の「従業員を善くしたいと思うならば、まずあなた自身が善くならなければなりません」という言葉を聞いた鶴吉は、「私から教えを受けたいと思いますからどうぞおいで願います」と丁寧に頼み、信水の郡是への赴任が決まりました。この時鶴吉は52歳、信水は43歳でしたが、鶴吉は、信水の講話を聴くときは、生徒の一人として必ずメモを取りながら耳を傾け、信水に約束したことを実行しました。

信水は、42歳から68歳までの26年間郡是に在籍しました。鶴吉の存命中は教育の大任を任され、鶴吉の隣り合わせの社宅に住み、同社の社訓も手掛けましたが、鶴吉の死後は郡是の経営陣とうまくいかなくなり、専務の片山金太郎の死後、会社を去ることになりました。

銀行王 安田善次郎

幕末に富山藩下級武士から商人に転身し、戦前の四大財閥である安田財閥を一代で築き上げた安田善次郎も鶴吉の人柄を通じて郡是とのつながりを持った一人です。

当初、郡是は何鹿郡の明瞭銀行から資金の融通を受けていましたが、同行が破綻した後は第百三十銀行福知山支店と取引をしていました。ところがこの銀行も破綻し、政府は当時銀行王と呼ばれていた安田善次郎にその救済を依頼します。福知山支店の状況を調査した安田は、郡是という会社に無担保で15,000円の多額の貸付をしていることを知り、郡是に視察に入ります。安田は門前で粗末な木綿の着物を着て、草むしりをしている鶴吉を社長とは思わず取次を求めたところ「私が波多野です。今日あなたがおいでくださるので、せめてこの辺りをきれいしておきたいと思いまして」と最初の挨拶を交わします。 鶴吉は安田を迎えるために芝居をしたのではなく、粗末な着物を着て、はな夫人とともに草むしりや掃き掃除を行うのはいつもの風景でした。
安田は一瞬のうちに鶴吉の人物を見抜き、工場見学と経営理念を確認した後、資金の用立てを約束して郡是から引き揚げました。

それから10年後の大正初期、郡是は工場の大火災と世界的不況による糸価の大暴落により最大の経営危機に直面します。鶴吉は教会で涙の祈りを捧げ、東京の安田を訪ねます。病床にあった安田は鶴吉を部屋に通し「波多野さん、天気の日もあり、雨の日もあります。安心しておやりなさい。」と励まし、第百三十銀行福知山支店に「万一の場合は郡是を救え」との指令を出していました。

郡是の名を世界に広めた
アメリカの織物業者 ウィリアム・スキンナー

明治33年にパリで開催された万国博覧会において、郡是の生糸は金牌を受賞。世界に誇る良品となりました。その翌年、生糸の取引に関して、当時、世界有数の織物会社であったアメリカのスキンナー商会との特約取引の約定が結ばれました。

そのきっかけは、スキンナー商会の社長ウィリアム・スキンナーが、日本からの輸入倉庫を調べていたところ、一束最上の品質の物を見つけたことによります。それが郡是の製品であることがわかり、社長はただちに横浜の貿易商社に連絡し、今後注文するすべての生糸を郡是製品とすることを指示し、一手に買い受けることとしました。

明治42年にウィリアム・スキンナーが日本絹業視察団長として来日した際、郡是を訪問し、鶴吉と会見しました。鶴吉の案内で工場の内外を見て回り、女子従業員が読書と裁縫を学んでいる様子を見た瞬間、スキンナーは鶴吉の肩を叩きながら「ベリー・グッド!」を繰り返しました。そして、「設備もさることながら、従業員の教育には最も深く感動した。何かに役立ててほしい」と500円寄付して帰ったといいいます。

鶴吉の片腕 片山金太郎

鶴吉は、郡是の創業前に、実務面で自分の片腕として経営を支えてくれる人材を探していました。そこで自分の片腕として郡是に招聘したのが片山金太郎です。

片山は、明治元年に郡是から約1キロメートルの吉美村に生まれました。片山家は代々村の庄屋を務める有力者でしたが、父が親類の借金の保証人となったことから、家計はかなり苦しいものでした。片山も一時は叔父の家に奉公に出されたことがありました。
明治20年、何鹿郡蚕糸業組合長の鶴吉が高等養蚕伝習所を開設し、鶴吉の計らいで片山も入学することができました。ここでの片山は特に優秀であり、鶴吉の耳にも入っていました。伝習所を卒業した片山は、自宅で製糸業を行ったり製糸工場に勤めたりした後、製糸巡回教師として働いていました。その片山に、鶴吉は「綾部で製糸工場を創立することになったから、そこで自分の片腕になってくれ」と頼みました。半信半疑だった片山は、鶴吉の熱意に決心し、会社発起人の一人として、現業長に就任し、創立当時の郡是の最高級の待遇で迎えられました。

片山は郡是のためにすべてを捧げたといっても過言ではありません。片山に寄せられたある儲け話に対して、「郡是以外のことに頭を使うことは会社に対して申し訳ない。どんなに儲かる話があったとしても、私は会社以外のことに頭を使うつもりはない」ときっぱり断ったといいます。鶴吉は、片山に絶対の信頼を寄せ、後顧の憂いなく事業を進めていくことができました。鶴吉なくして郡是は存在しなかっただろうが、片山なくして郡是が存在することもなかったといわれています。
片山は最高のナンバー2でしたが、鶴吉亡き後も最後までナンバー2に徹しました。昭和9年2月、郡是に全身全霊を捧げた片山は、出張先の東京で倒れ67歳の生涯を閉じます。片山の葬儀の日、郡是本社から片山家の墓がある場所まで約2キロの道にずらりと花輪が並んだといわれています。